2010/05/01
「死ぬのを怖いと思ったことがない」 - 池田晶子『14歳からの哲学』
池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー
ぼくが池田晶子さんのことを知ったのは、大学入学を直前に控えた高校3年の冬だった。産経新聞の「産経抄」欄で、前週に亡くなった池田さんを悼むコラムを読んだ。当時は池田さんの名前すら知らなかった。ただこのコラムだけは、強烈にぼくの印象に残った。
<...先週届いた訃報には驚いた。しかも46歳の若さである。腎臓がんという、自身の病気について触れることはなかったが、「死ぬのを怖いと思ったことがない」と公言してきた。池田さんに限っては、本心だった気がする。>
「死ぬのを怖いと思ったことがない」という彼女の言葉は、ぼくには全く理解できなかった。ぼくは、死ぬのが怖くてたまらなかった。学校で必死に勉強をして、名門大学への進学を決めたのも、全部死にたくないからだ。勉強をすれば、いじめられなくて済むし、良い大学に入れば、安定した生活が送れる。そうすればぼくは、死なずにいられると思った。だから「死ぬのは怖くない」と言って亡くなった人間のことなんて、想像も付かなかった。そこでぼくは、池田さんが何を考えて亡くなったのかを知りたくなった。彼女の本をむさぼるように読んだ。
『14歳からの哲学』は、語りかけるような文体で、身近なことから哲学を始める糸口を示してくれる。その語り口は平易であるが、決して内容のレベルが低いわけではない。大人になってもこの内容を理解できない人は、山ほどいるだろう。もちろん死についても扱っている。池田さんは、ぼくに問いかける。
君は「死ぬのは怖い」と言った。君が「死ぬのは怖い」と言うためには、死ぬことが怖いことだと知らなければならない。でも、なぜ「死ぬのは怖い」と知っているのだろうか。
君は「自分が死ねば、自分は存在しなくなる。存在しなくなることが怖い」と答えるかもしれない。でも、もし君が死んで存在しなくなれば、それを怖いと思うことはできないんじゃないかな。だって君が「存在しなくなるのは怖い」と思っている限り、君は存在しているのだもの。「死ぬのは怖い」と思うのは、君が死んでいないからだ。実際に死んでしまえば、「死ぬのは怖い」ということを君が思うこともできない。だから「死ぬのは怖い」ことはない。
また同じように、「自分が死ねば、自分が存在しなくなる」と言うのも正しくない。なぜなら「自分が存在しなくなる」と思っている限り、君は存在しているのだから。「自分は存在しない」ということをいくら考えても、そのことを考えている自分は存在する。だから君が生きている限りは、「自分が死ぬ」ということを考えることはできない。つまり、君が死ぬことなんてありえない。君が死ぬということはないのに、それを怖がって生きるなんて、何かおかしいと思わないだろうか。
はじめに君は、死ぬことを怖がっていた。ここまで考えてみて「死ぬのは怖い」ということが、どうも奇妙なことだと気付いただろうか。実際に君が、死ぬことが怖くなくなったかどうかはわからない。でも少なくとも、君が死ぬことについて何も知らないということは、よくわかったんじゃないだろうか。そして不思議なことに、世の中の人はたいてい、「死ぬのは怖い」ということを、当たり前のことだと思って生きているんだ。
他にも、世の中で「当たり前だと思われていること」はたくさんある。池田さんは、いくつかの「当たり前」が本当に正しいかどうかを、読者と共に考える。この「当たり前」ほど、奇妙で不思議なことはない。なぜならぼくたちの思う「当たり前」は、しばしば正しくないからだ。この不思議な感じは、ぼくたちが本当に正しいことを知るために、考えるきっかけとなる。そして「当たり前」を不思議に思うことで、ぼくたちが考えるべき問題は、宇宙の果てまで限りなく広がっていく。この宇宙大の不思議は、人類が2000年かかっても解けなかった壮大な大事業だ。未だに解けない大事業を、先人たちは哲学と呼んできた。
ぼくは池田さんに出会ってから、今まで見ていたような方法で世界を見ることができなくなった。これまで当たり前のように正しいと思えたことが、当たり前のように正しいと思えなくなってしまった。ぼくは突然、なぜ勉強するのかがわからなくなってしまった。なぜ学校に通わなくてはいけないのかがわからなくなってしまった。そして、本当に正しいことをもっと知りたいと願うようになった。ぼくは、本を読み、自分の頭で考え始めた。
池田さんが「死ぬことは怖くない」と言ったことを、ぼくは理解できなかった。同じように、ぼくが正しいと考えたことを、みんなが正しいと思うわけではないかもしれない。しかし、池田さんは言う。<たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。>
2010/04/04
死刑ってどう執行するか知ってますか? - 森達也『死刑』
森達也『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』朝日出版社
世界は死刑廃止に向かいつつある。今は死刑の存置国は64ヶ国しかない。そのほとんどはアジア、中東、アフリカに属する。また存置国の中でも、廃止に動く国は多い。韓国や台湾は死刑廃止に向かいつつある。アメリカでも、近年の執行数は減少している。
一方日本では、世論の8割が死刑に賛成しており、執行も毎年行われている。2008年には15人の死刑が執行され、32年ぶりに2桁の水準を記録した。今や日本は、世界を代表する死刑存置国である。
しかしながら、ぼくたちは死刑について無知すぎるのではないだろうか。例えば、死刑がどのように執行されているか想像したことがあるだろうか。死刑囚は、当日の朝に死刑の執行を告げられる。執行の前には家族や友人に会うこともできないし、遺書を書くこともできない。すぐに刑務官に両腕を抱えられ、刑場に連れて行かれる。刑場では、教誨師や刑務官と言葉を交わしてから、目隠しをされ、足を縛られる。刑場の天井からはロープが下がっていて、死刑囚はロープの輪っかに首を通す。そして刑務官がボタンを押すと床が抜け、すとんと下に落ちる。死刑囚は心臓が止まるまで20分間、そのまま吊るされる。実際目にすることはできないが、死刑は毎年このように執行されている。
著者である森達也は、死刑について知るために、死刑の当事者たちに話を聞きに行った。弁護士、国会議員、教誨師、刑務官、元検事、元裁判官、元死刑囚、そして被害者遺族。
元刑務官の坂本敏夫は、世間の人が「凶悪な事件と処刑という、始まりと終わりの形しか知らない」と言う。刑務官は、死刑囚と10年以上もの時間を共有する。長い間一緒に過ごすうちに、死刑囚との間には家族に近い感情が芽生えるという。「死刑囚との関わりだとか、周辺にいた人の思いや努力とか、お世話になりましたと言って処刑台にのぼって死んでいった人の気持ちとか・・・事件と処刑のあいだにあるそういうことは、まったく知られていないでしょう」
そして彼は、改悛の情を深め、遺族に心から詫びながら、従容として処刑台に上る死刑囚を何人も見ている。だから彼は、死刑の執行には反対の立場をとる。
被害者遺族の松村恒夫は、皆は「被害者のことをわかったようなふりをしているけれど、実際にはわかっていない」と語る。彼の孫の春奈ちゃんは、幼稚園に行っている間に友達の母親に殺害された。「相手が生きているかぎり許せない。」だけど被害者の気持ちは、加害者が死刑になっても代替できるものではないという。「死刑はひとつの過程に過ぎない。それからまださらにこっちは生きなきゃいけない。犯罪に遭ったとき、ひとりが殺されるだけじゃなくて、みんながめちゃくちゃになる。」
松村の孫を殺した加害者は、裁判で死刑にならなかった。もちろん松村は、加害者の死刑を望んでいる。しかしながら、同時に彼は「死刑という制度を使わないで済む社会になればいちばんいい」とも言っている。死刑という制度があるだけでは何も解決しない。だから彼は死刑を絶対に存置すべきであるとも考えていない。
著者の森は、たくさんの当事者に話を聞いた。その結果、森は死刑をどう判断したのだろうか。
森はまず「死刑をめぐる議論は、論理を超えて情緒の領域で行われる」という。当事者たちは死刑に関して、強烈な経験を持っている。そしてその経験を起点にして、彼らは死刑について逡巡し、考えている。もちろん存置派も廃止派もいる。当事者たちの持つ経験に対して、論理で何を言っても無駄だ。彼らの経験とそれに対する思いは、論理による説得なんかで動くものではないからだ。
そして森は、ぼくたちが死刑についての経験を持たない第三者でしかないことを見つける。ぼくたちは死刑を執行したこともないし、死刑囚と会ったこともない。大切な人を誰かに殺されたこともない。だからぼくたちは、死刑について感情的に判断しがちである。例えば95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件後、死刑に賛成する人は世論の8割にまで増えた。ぼくたちはサリンを撒いた実行犯たちを死刑にするべきだと考えた。でも、ぼくたちは地下鉄サリン事件の当事者ではない。被害者でもないし、加害者でもない。たまたまマスコミが実行犯の信者を「極悪人」のように報道したから、あなたはそれを真に受けて、「あんな極悪人は死刑になって当然だ」と感じただけに過ぎない。結局ぼくたちの出した結論というのは、マスコミの報道に大きく影響されるような、一時的で感情的なものなのだ。
しかしながら、ここで忘れてはいけないことは、死刑制度を支えているのはぼくたち、そしてあなたなのだ。あなたひとりの判断が変われば、制度も変えられる。だからあなた自身が、いろいろな人の死刑に対する思いを知った上で、それでも死刑を続けるべきか、止めるべきか考えなければいけない。
2010/03/27
文章をみがかないと、感動は伝わらない - 辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書
辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書
電子メールやブログの登場によって、私たちは数多くの人と手軽にコミュニケーションできるようになった。これらのテクノロジーのおかげで、私たちが文章を書く機会も爆発的に増えた。しかしながら、文章を書く機会が増えるということは、人を感動させるような名文がたくさん生まれることを意味しない。なぜなら、いくらテクノロジーが進歩しても、表現のシステムは進歩しないからだ。言葉や文章などの表現を使わないと、感動を人に伝えることはできない。そしてこの表現方法は、コミュニケーションの手段として限界を持っている。パソコンでデータをコピーするように、文章を通じて感動を伝えることはできない。だから私たちが感動を伝えるためには、文章の表現にあらゆる工夫を凝らす必要がある。文章を書く際の困難さは、今も昔も変わっていないのだ。
例えば『「春の訪れ」を表現してください』と言われたら、あなたはどうしますか。芽吹きつつあるサクラの花や、穏やかな春風なんかを交えて表現するだろうか。南木佳士は、『阿弥陀堂だより』の中で春の訪れをこう書き表した。
「風が春の先ぶれだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせていた」
どうだろうか。まるでその現場に立っているかのように、春の様子を感じることができないだろうか。この文章には、春の一場面をそのまま切り取ったかのような臨場感がある。「フキノトウ」「若草色の芽」「ぬくもった香り」は、感覚的に春を訴えかけてくる。それだけでなく「腐葉土」や「雑草の下」「阿弥陀堂の庭の端」という言葉によって、春の現場が鮮明にイメージできるようになる。
このような文章は、一朝一夕に書けるものではない。「ぬくもった腐葉土の香り」や芽吹くフキノトウを見出すのは、南木独自のセンスだ。そして南木が見つけた「春の訪れ」を鮮明なイメージと共に、効果的に読者に伝えている。短い文章ではあるが、簡単に真似できるものではない。
『文章のみがき方』では、いい文章を書く方法が述べられている。では、いい文章とはどのようなものなのか。文章の本質は、ものごとを読者に伝えることにある。いかに感動的なストーリーや目新しい事実が述べられていても、読者にうまく伝わらなければ、文章はその役割を果たせない。内容の素晴らしさを読者にわかってもらえなければ、いい文章であるとは言えない。だからこそ辰濃は、「自分にしかかけないことを、だれにでもわかる文章で書く」ことこそが重要だと述べている。
いざ文章を書いてみると、「自分にしかかけないこと」を書くことや「だれにでもわかる文章で書く」ことは、案外むずかしいことに気付かされるだろう。特に私たちは文章を書く際に「だれにでもわかる文章で書く」ことを忘れがちである。私たちは日々文章を読んでいても、書き手の立場に立つことは少ない。人の文章を読んでいて、「これは読みやすいな」とか「なんだかわかりにくい文章だ」と感じることはあっても、実際にわかりやすい文章を書くことは容易でない。いい文章の書き手になるためには、読者に「わかりやすい」「読みやすい」と思わせる工夫を施した文章を書く必要がある。
だれにでもわかる文章といっても、平易な言葉を使うだけでは不十分だ。平易な言葉だけを使うことで、ものごとの感動や面白みを失ってしまっては本末転倒である。わかりやすい言葉遣いだけでなく、構成、比喩、ユーモアなどの工夫を交えながら、内容を損なわずに、だれにでもわかる文章を書きあげることが大切だ。もう一度『阿弥陀堂だより』からの引用を読んでみよう。たった二文であるが、簡潔に、そしてありありと南木の感じた「春の訪れ」をイメージすることができるだろう。
『文章のみがき方』の中では、いい文章を書くためのヒントがたくさん書かれている。注目すべきなのは、全体を通じて「文章修行」という言葉がたびたび使われていることだ。文章というのは、借り物の言葉や技巧を使ってすぐによくなるものではない。日々コツコツと努力していくことによって、初めていい文章が書けるようになる。だからこの本は、いい文章の書き方の本ではなく、文章のみがき方の本なのだ。
幸いにも現代に生きる私たちは、インターネットを通じて世界に文章を発信することができる。自分が精魂こめて書いた文章に、多くの読者を持つ機会が目の前にある。手軽にコミュニケーションできるだけに、軽率に書いてしまうことも多いだろう。しかしながら、この機会を利用して、自分の感動を見つめなおし、誰にでもわかりやすい文章を書いてみてはいかがだろうか。たとえ相手の顔は見えなくても、深いコミュニケーションの中から、あなたの良き理解者を得ることができるかもしれない。
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