2009/11/22

プラトン『ゴルギアス』


プラトン『ゴルギアス』岩波文庫


 『ゴルギアス』の舞台は、紀元前5世紀の古代アテナイ。プラトンの師匠、ソクラテスが、有名な弁論家のゴルギアスたちと話し合う。この対話形式は、プラトンの著作ではおなじみだ。

 ソクラテスが、話し相手を巧みに説得していく姿は、読んでいてとても痛快だ。
 
 「自分が生きながらえるのに役立たない哲学なんて、知恵の名に値するのだろうか。」ソクラテスの友、カルリクレスは、ソクラテスの生き方の核心に迫る疑問を投げかける。カルリクレスによれば、自然の理は、強者が弱者のものを力ずくで奪い、多くの権力や富を持つことにある。このような権力や富に対する欲望は、自然に従って大きくなるままに放置しておくべきである。しかしながら、欲望を充足できるのは、一部の強者だけであり、大衆にはとてもできることではない。だから大衆は、権力や富を持つ強者を非難し、自分たちの無能を覆い隠そうとする。そして無能を覆い隠すためにこそ、大衆は「放埓はまさに醜いことである」という正義の徳をほめたたえるのだ。正義の徳というのは、いわば大衆の欲望を達成するための口実にすぎない。つまるところ、人間にとって善は、欲望だけである。

 その上でカルリクレスはソクラテスに忠告する。「反駁するなどということはやめにして、それよりも、実務に関するよいセンスを養うようにしたまえ。」そしてよいセンスというのは、人を説得して思うままに動かす技術である弁論術だという。

 それに対してソクラテスは、善悪と欲望とは別のことであると言う。その例えとして、医術と料理法をあげる。医術は、身体の本性をよく研究したうえで、最善の処置を目指す技術である。一方で料理法は、身体の本性を研究するでもなく、ただ熟練と経験に頼って、快楽をもたらそうとする。料理法は、その快楽が身体にとって善いか悪いかは考えてみようともしない。料理がただ気に入られて喜ばれさえすれば、それ以外のことには全然関心がない。だから料理法は、快楽はもたらすが、善をもたらすことはできない。

 さらにソクラテスは、善のために欲望は抑制されるべきであると主張する。医者は病気を治療する際に、患者の欲望を満足させることを許さない。むしろ病気の治療は、苦痛を伴うことも多い。なぜなら、医者は、たとえ苦痛を伴う治療でも、それが患者の身体にとって最善であることを知っているからだ。人間の魂にとっても同じで、魂が劣悪な状態にある限り、欲望の満足は抑制されるべきである。なぜなら、魂が劣悪な状態にあることこそ、何よりも不幸であるだからだ。

 「人間の善は、欲望にある」というカルリクレスの主張は、一見するととても取るに足りないものに思えてしまう。しかしながら、取るに足りないと思う私自身は、彼の言うような善に従って毎日生活しているのではないだろうか。カルリクレスの言う善は、強者である政治家やブルジョワジーだけのものではない。それは読者自身のものでもある。私たちは、このような善は取るに足りないと口では言っていても、実際にはあらゆる欲望に従って生きているのではないか。そして著者のプラトンは、ソクラテスにカルリクレスを論破させることによって、読者に「君たちは本当に善く生きているのか」と問いかけている。

 このように考えると、ソクラテスはある物語の一人の賢人としてではなく、現実を生きる血の通った人間として私たちの目の前に現れる。それも、強い覚悟を持つ人間として。
 
 ソクラテスにとって、善く生きることは、字面だけの正義や善を知ることではなかった。その正義や善が、他者の批判に耐え、そして他者に受け入れられることが何よりも重要だった。だからソクラテスは、ろくに仕事もせずに、毎日毎日古代アテナイの市民と対話をして、自分の善が正しいかどうか確かめ続けた。例えば、善を語るカルリクレスに対して、彼はこう述べている。「以前は劣悪な人間であったのだが、つまり不正で放埓で無思慮な者であったのだが、カルリクレスのおかげで、立派なすぐれた人間になった者が、誰かいるのか」。

 相手の魂を善に導くということは、そう簡単にできることではない。なぜなら、医術の治療が苦痛を伴うように、劣悪な魂を善くすることは、人間の欲望に反するからだ。全ての人間は、不快な事実には耳を傾けたがらない。そしてそれが不快であるがゆえに、善のために毎日対話を続けるソクラテスは、「悪いことを皆に触れまわっている変人」というレッテルを張られた。それでもソクラテスは、裁判の結果処刑されるまで、たったひとりになっても善を追求し続けた。彼は強い覚悟とともに、こう述べる。「現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。」

 『ゴルギアス』を本当に知恵とするには、痛快どころか、激しい苦痛を持って読まれなければならない。

2009/11/15

トマス・フリードマン『フラット化する世界』


トマス・フリードマン『フラット化する世界』日本経済新聞社


先進国の企業は、経済のグローバル化を通じて大きな利益を上げてきた。なぜなら、利益は「安く買って、高く売る」ことで生み出されるからだ。グローバル化によって市場が世界中に広がれば、世界で一番安く資源を買い、一番高く売れる地域で製品を売ることが可能になる。「安く買って、高く売る」ようなグローバルなビジネスにとって重要なのは、世界の地域ごとにあらゆる格差が存在しているということである。

 しかしながら、グローバル化は同時に、このような格差を解消する。先進国の企業がますますグローバル化すると、先進国だけに偏っていた富が世界中に拡散する。富が拡散する結果、世界の隅々までインターネットや輸送手段などが行き渡り、情報や教育、距離の格差は徐々に解消される。つまり、格差があった世界は、徐々にフラット化する。本書は、フラット化しつつある世界を豊富な例とともに捉え、素晴らしい想像力で近未来のフラットな世界を描いている。

 フラットな世界というのは、具体的にどういうことなのだろうか。グローバル化は、共同作業のためのテクノロジーを飛躍的に成長させた。その最たるテクノロジーは、インターネットである。今やインターネットによって、世界に点在するオフィスと共同で仕事ができる。また、オフィスに行かなくても、インターネット端末さえあればどこでも仕事ができる。つまり、仕事をする人間が、アメリカにいるかニューデリーにいるかは問題でなくなる。このことは、仕事をする人間が、アメリカ人であろうとインド人であろうと、関係がなくなることを意味する。例えばいくつかのアメリカ企業は、コールセンターをインドにアウトソーシングしている。テクノロジーの発展の結果、インドとアメリカという距離の格差が消滅し、アメリカ人とインド人の共同作業を可能にしたのだ。

 フラットな世界では、仕事は2種類しかなくなる、と本書は述べる。誰にでもできる仕事と、そうでない仕事だ。そして世界がフラットになるにつれて、誰にでもできる仕事の種類は増えていく。コールセンターがインド人に代替されたように。今後は、より専門的な仕事もアウトソーシング可能になるだろう。言うまでもなく、フラットな世界における優秀な人材というのは、代替不可能な仕事ができる人間である。代替不可能な仕事ができる人間は、世界中のどこにいても自分の仕事を見つけられる。一方で、誰にでもできる仕事しかできない人間は、常に世界の誰かに仕事を取られてしまう恐怖と直面しなければならない。

 先進国に住む人は、世界がフラット化することに大きな不安を覚えるかもしれない。しかしながら、悪いことばかりではない。フラットな世界は、多くの個人に新たな希望を与える。フラットな世界における価値のある仕事というのは、誰にも真似できない独創的なアイディアにより、商品に付加価値をつけることである。逆にいえば、独創的なアイディアを持っていれば、老舗の企業であろうと新参企業であろうと、あるいは個人であろうと、イノベーションを生み出す者なら誰でも大きな成功を期待できる。フラットな世界では、個人がこれまで以上に活躍のチャンスと能力を得るのだ。

 また、ここでもう一つの不安が浮かぶ。フラットな世界では、世界に共通の文化しか価値を持たなくなるのだろうか。確かにフラットな世界では、共同作業のためのツール―インターネット、英語、インフラ―は共有されるだろう。しかしながら、地域の言語や文化が失われるわけではない。むしろそれは一層深化される。テクノロジーのおかげで、個人は故郷を離れずにビジネスの最前線で働くことができる。また国外移住者も、生まれた国の社会習慣やニュース、友人から離れずにいられる。地域のコミュニティは、テクノロジーを通じて結びつけられるのだ。コミュニティがなくならない以上は、地域に根差した仕事がなくなることもない。フラットな世界では、伝統や文化は単一化するどころか、多様性をいまだかつてなかった段階にまで深化させる。

 フラット化した世界では、世界に存在していた様々な格差―教育、国境、出自、富―は消滅する。これは個人にとって、明らかにチャンスである。教育や共同作業のためのツールは数多く存在しているために、世界中の誰もが学ぶ機会や、ビジネスの機会を得るのだ。フラットな世界において、魔法の呪文などない。そこでは貪欲に学び、イノベーションを生み出そうとする人間だけが、成功できる。問題は、あなたがどこの国の人で、どこの大学を出たかではない。あなたが世界にどんなイノベーションをもたらすことができるか、だ。本書にはそのためのヒントが、たくさん詰まっている。

ブログ始めます。

ブログのタイトルがあまり練れていませんが、ブログ始めます。
内容はタイトルの通り、学生のための読書を推進するブログです。
私が読書にハマったのは高校生のころですが、当時から「もっと早く読書を始めてればなぁ」
という思いがありました。このブログが若い学生の読書のきっかけになればいいと思っています。

このブログでは、基本的に学生向けの本の紹介を載せるつもりですが、
その本のエッセンスが、紹介文を通じて吸収できるような、有益な文章を書くつもりです。
もちろんその紹介文を通じて、本を手にとって読んでいただければ、これほどうれしいことはありません。

更新ペースは週に1度くらいになると思います。どうぞよろしくお願いします。