2009/12/27

山森亮『ベーシックインカム入門』


山森亮『ベーシックインカム入門』光文社新書


 ベーシックインカムとは、全ての個人が生活するのに必要な所得を無条件で得ることができる、という社会保障を指す。そんな理想的な社会保障政策なんて、実現不可能だから意味がない、と言わずにとりあえず読んでみてほしい。ベーシックインカムの考えは、今までの社会保障政策の失敗から生まれている。そこで、まずこれまでの社会保障を知ることで、ベーシックインカムのような理念がどうして注目されているのかを考えたい。

 現代の多くの先進国は、多かれ少なかれ保険保護モデルと呼べるような社会保障の仕組みを採用している。この保険保護モデルは、「働かざる者食うべからず」という考えに基づく。つまり、みんなが労働に従事している状態(完全雇用)を目標としている。そして完全雇用から漏れて失業した人のために、政府は失業保険や生活保護などの社会保障を提供する。これらの社会保障は、完全雇用から漏れた人のためのセーフティネットの役割を果たす。このセーフティネットのおかげで、もし失業しても、次の仕事に就くための準備をすることができる。

 このモデルが理想とする、みんなが就くべき「労働」というのは、賃労働を前提としている。賃労働というのは、その報酬として給料が支払われるような労働のことを指す。このモデルの「みんなが賃労働に就くべきだ」という理想は、現在いくつかの問題を抱えている。例えば、専業主婦のことを考えてみてほしい。専業主婦は、直接に賃金を生み出さない家事労働をしている。だが専業主婦は、夫の賃労働を支えるという点で、間接的に賃労働に貢献していると言える。同じことは専業主婦以外にも当てはまる。直接にお金を生み出さないが、あらゆる形で社会に貢献している人はたくさんいる。従来の保険保護モデルは、彼らのような賃労働に従事していない人たちを「賃労働をしていない」という理由で、評価することができなかった。

 それでは、賃労働に携わっていない人たちが評価されていない状態は、いったい何が問題なのだろうか。賃労働に携わっていない人たちは、理想である完全雇用から漏れた人であるとして、保険保護モデルの中では不当な差別を受ける結果となった。例えば、先も述べたように専業主婦の家事労働は、現在も賃労働として評価されていない。このために「女性は家の中で家事をするもの」という認識が社会的に広がり、女性の平均賃金は相対的に低いままである。

 また賃労働に従事していないために差別されてきたもうひとつの例として、身体障害者が挙げられる。彼らは身体的理由でいわゆる賃労働に従事できない。それでも彼らは、「働かざる者食うべからず」の現代では、常に賃労働に就き自立するように、という社会的圧力を受けてきた。時には就労支援施設に入れられ、不自由な体で労働を強いられるケースもあったという。

 保険保護モデルは、賃労働だけを評価していたために、賃労働に就いていない人を不当に差別する結果となった。しかしながら、賃労働をしていない人々は社会にとって本当に不必要なのだろうか。これがベーシックインカムの持つ基本的な問題意識である。もちろん専業主婦の家事労働は社会にとって欠かせない重要な労働である。また身体の不自由な人を温かく迎え入れるような寛容性も、もちろん社会にとって重要な要素である。賃労働に就いていない人たちを評価しなおすには、これまで重視されてきた労働の概念を見直す必要がある。

 そこで次に、賃労働に就いていない人たちを、いかにして新たに評価することができるのか、を考えたい。ここでは、イタリアの哲学者アントニオ・ネグリの主張を見てみたい。ネグリによれば、現代実際に生産が行われているのは、オフィスや工場の中だけに限られない。オフィスや工場の外で行われるあらゆる活動も、資本によって生産に利用されている。例えば、知的ないし言語的な労働の場合、仕事の時間と余暇の時間の区別は極めてあいまいになる。また時間だけでなく、仕事の成果が誰によるものなのかもあいまいになる。終業後に家でシャワーを浴びているときにも、仕事に役立つアイデアが思いつくこともあるかもしれない。そしてそのアイデアは、前に読んだ本からインスピレーションを受けたかもしれないし、他人から聞いた話を応用したものかもしれない。

 そこでネグリは、労働の成果を社会全体に帰すことを唱える。つまり、労働者だけでなく、専業主婦や障害者、ひきこもりに至るまで、社会を構成するあらゆる人間を、生産に貢献する要素として評価しなおそうと主張する。ネグリはこれを「社会化された労働」と呼ぶ。生産に貢献しているのは労働者個人ではなく、労働者を取り巻く社会環境である、となれば、賃金は労働者個人ではなく、社会に支払われるべきである。この「社会化された労働」に支払われる賃金として、ネグリはベーシックインカムを提案している。

 さてこれまで、従来の社会保障である保険保護モデルにおいて評価されてこなかった人を再評価する手段として、ベーシックインカムを見てみた。このベーシックインカムは、保険保護モデルに代わる社会保障政策にとどまらない。ベーシックインカムは、差別のない、より自由な社会を実現するためのひとつの手段として現在も活発に議論されている。

2009/12/09

ウェーバー『職業としての学問』


ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫


 学問は、疑うことから始まった。

 いきなり脱線して申し訳ないが、近代科学の始祖とされるデカルトは、言った。真理の探究のためには、<ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである。>(『方法序説』)しかしながら、疑っても疑っても、偽として捨てることができないものがある。それは何かを疑い続ける私自身である。だから疑いえない私自身は、疑いえない存在として認めざるを得ない。そして、その疑いえない私自身という存在が、明晰に認識し判断することは全て真である。あらゆる人間は、疑いえない「私自身」を持っているから、あらゆる人間が明晰に認識し判断することは全て真である。

 わかるようなわからないような理屈だが、デカルトは疑うことから、それぞれの人間が共通に持つ「明晰な認識力と判断力」を発見した。そしてあらゆる人間が明晰に判断できるものは、自然の中の法則として認められることになる。例えば、あらゆる人間が「リンゴが木から落ちる」ことを認識すれば、地球上には「リンゴは木から落ちる」という原理が存在することが証明されるのだ。このような自然の中の法則をたくさん見つけ出すのが、自然科学である。自然科学は、デカルト以来今日まで、華々しい成功を収めている。

 とにかくここで言いたいのは、「学問は、疑うことから始まった」ということだ。

 ところで、疑うことで疑いえない「私自身」を発見したとき、デカルトは「私自身」を、神の力によるものであると確信した。なぜなら、あらゆる人間に確たる存在や明晰な判断力を与えられるのは、神しかいないから。こうしてデカルトは、彼の明晰な判断力によって、神の存在を再確認した。ところが、デカルトの答えとは裏腹に、デカルト後の学者たちは、神を殺した。学者たちは、明晰な判断力によって、自然界の中から神を見つけ出すことができなかった。彼らは、神の存在を証明する明晰な理由を発見することができなかった。ウェーバーも言う通り、<学問が神とは没交渉なものであるということは、こんにち腹の底ではだれでもこれを疑わない。>

 神は、学問によってその不在が証明された。そして学問は、神を殺した代償として、真理のあくなき追求を得た。学者だけでなく、これまで神を信じていた人々も、真理や進歩の追求に奔走するようになった。要するに、学問的な真理や進歩が、神に取って代わって、人々の生活の目的となった。

 ここから本題に入るので、もう少し我慢して読んでほしい。

 今や、学問が私たちの生活に欠かせないものであることを疑うことは難しい。そして学問が何らかの価値を持っていると多くの人が考えている。だからこそ、多くの若者は、学問を志す。しかしながら、ウェーバーは、学問というのはそんなに大した価値はないと言い切る。彼に言わせれば、学者というのは、野菜売りと対して変わらない。野菜売りは野菜を売ってお金を稼ぐ。それと同じように、学者は知識を売ってお金を稼いでるに過ぎない。

 なぜ学問に大した価値はないのか。ウェーバーは、「学問が神に取って代わることは決してできないから」と言う。

 例えば、私たちがその成果を実感できる学問として、経済学や医学がある。経済学を通じて、貨幣経済が世界中に広がり、私たちは多くの富を蓄えることができるようになった。また医学を通じて、私たちはこれまでになく健康に長く生きられるようになった。ここで、経済学にとっては富や効用をたくさん得ることが絶対的価値であり、医学にとっては長く健康に生きることが絶対的価値である。

 しかしながら、学問は、それが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。つまり、経済学は、富や効用を得ることが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。医学は、長く健康に生きることが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。要するに、学問は、「私たちはどう生きるべきか」という本質的な問いに答えることはできないのだ。だからこそ、学問は神に取って代わることはできない。いくら学問をやっても、あなたの人生は一向に決まらないのだ。

 さて、本書はウェーバーが学生に向けた講演に基づいている。先ほど述べたように、疑うことで始まった学問は、神を殺した。そのために、神を失ったあらゆる学生は、多かれ少なかれ「私たちはどう生きるべきか」という本質的な問いを抱えている。ウェーバーは、このような学生に向けて、学問の無意味さを説いたうえで、こう言う。「神は死んでしまったので、人生の意味なんて誰にもよくわからない。そもそも人生を疑い始めたら、まともに生きられない。だからこそ、とりあえず毎日やるべきことをやりなさい。」