2010/05/01

「死ぬのを怖いと思ったことがない」 - 池田晶子『14歳からの哲学』


池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー


 ぼくが池田晶子さんのことを知ったのは、大学入学を直前に控えた高校3年の冬だった。産経新聞の「産経抄」欄で、前週に亡くなった池田さんを悼むコラムを読んだ。当時は池田さんの名前すら知らなかった。ただこのコラムだけは、強烈にぼくの印象に残った。

  <...先週届いた訃報には驚いた。しかも46歳の若さである。腎臓がんという、自身の病気について触れることはなかったが、「死ぬのを怖いと思ったことがない」と公言してきた。池田さんに限っては、本心だった気がする。>

 「死ぬのを怖いと思ったことがない」という彼女の言葉は、ぼくには全く理解できなかった。ぼくは、死ぬのが怖くてたまらなかった。学校で必死に勉強をして、名門大学への進学を決めたのも、全部死にたくないからだ。勉強をすれば、いじめられなくて済むし、良い大学に入れば、安定した生活が送れる。そうすればぼくは、死なずにいられると思った。だから「死ぬのは怖くない」と言って亡くなった人間のことなんて、想像も付かなかった。そこでぼくは、池田さんが何を考えて亡くなったのかを知りたくなった。彼女の本をむさぼるように読んだ。

 『14歳からの哲学』は、語りかけるような文体で、身近なことから哲学を始める糸口を示してくれる。その語り口は平易であるが、決して内容のレベルが低いわけではない。大人になってもこの内容を理解できない人は、山ほどいるだろう。もちろん死についても扱っている。池田さんは、ぼくに問いかける。

 君は「死ぬのは怖い」と言った。君が「死ぬのは怖い」と言うためには、死ぬことが怖いことだと知らなければならない。でも、なぜ「死ぬのは怖い」と知っているのだろうか。

 君は「自分が死ねば、自分は存在しなくなる。存在しなくなることが怖い」と答えるかもしれない。でも、もし君が死んで存在しなくなれば、それを怖いと思うことはできないんじゃないかな。だって君が「存在しなくなるのは怖い」と思っている限り、君は存在しているのだもの。「死ぬのは怖い」と思うのは、君が死んでいないからだ。実際に死んでしまえば、「死ぬのは怖い」ということを君が思うこともできない。だから「死ぬのは怖い」ことはない。

 また同じように、「自分が死ねば、自分が存在しなくなる」と言うのも正しくない。なぜなら「自分が存在しなくなる」と思っている限り、君は存在しているのだから。「自分は存在しない」ということをいくら考えても、そのことを考えている自分は存在する。だから君が生きている限りは、「自分が死ぬ」ということを考えることはできない。つまり、君が死ぬことなんてありえない。君が死ぬということはないのに、それを怖がって生きるなんて、何かおかしいと思わないだろうか。

 はじめに君は、死ぬことを怖がっていた。ここまで考えてみて「死ぬのは怖い」ということが、どうも奇妙なことだと気付いただろうか。実際に君が、死ぬことが怖くなくなったかどうかはわからない。でも少なくとも、君が死ぬことについて何も知らないということは、よくわかったんじゃないだろうか。そして不思議なことに、世の中の人はたいてい、「死ぬのは怖い」ということを、当たり前のことだと思って生きているんだ。

 他にも、世の中で「当たり前だと思われていること」はたくさんある。池田さんは、いくつかの「当たり前」が本当に正しいかどうかを、読者と共に考える。この「当たり前」ほど、奇妙で不思議なことはない。なぜならぼくたちの思う「当たり前」は、しばしば正しくないからだ。この不思議な感じは、ぼくたちが本当に正しいことを知るために、考えるきっかけとなる。そして「当たり前」を不思議に思うことで、ぼくたちが考えるべき問題は、宇宙の果てまで限りなく広がっていく。この宇宙大の不思議は、人類が2000年かかっても解けなかった壮大な大事業だ。未だに解けない大事業を、先人たちは哲学と呼んできた。

 ぼくは池田さんに出会ってから、今まで見ていたような方法で世界を見ることができなくなった。これまで当たり前のように正しいと思えたことが、当たり前のように正しいと思えなくなってしまった。ぼくは突然、なぜ勉強するのかがわからなくなってしまった。なぜ学校に通わなくてはいけないのかがわからなくなってしまった。そして、本当に正しいことをもっと知りたいと願うようになった。ぼくは、本を読み、自分の頭で考え始めた。

 池田さんが「死ぬことは怖くない」と言ったことを、ぼくは理解できなかった。同じように、ぼくが正しいと考えたことを、みんなが正しいと思うわけではないかもしれない。しかし、池田さんは言う。<たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。>

2010/04/04

死刑ってどう執行するか知ってますか? - 森達也『死刑』


森達也『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』朝日出版社


 世界は死刑廃止に向かいつつある。今は死刑の存置国は64ヶ国しかない。そのほとんどはアジア、中東、アフリカに属する。また存置国の中でも、廃止に動く国は多い。韓国や台湾は死刑廃止に向かいつつある。アメリカでも、近年の執行数は減少している。

 一方日本では、世論の8割が死刑に賛成しており、執行も毎年行われている。2008年には15人の死刑が執行され、32年ぶりに2桁の水準を記録した。今や日本は、世界を代表する死刑存置国である。

 しかしながら、ぼくたちは死刑について無知すぎるのではないだろうか。例えば、死刑がどのように執行されているか想像したことがあるだろうか。死刑囚は、当日の朝に死刑の執行を告げられる。執行の前には家族や友人に会うこともできないし、遺書を書くこともできない。すぐに刑務官に両腕を抱えられ、刑場に連れて行かれる。刑場では、教誨師や刑務官と言葉を交わしてから、目隠しをされ、足を縛られる。刑場の天井からはロープが下がっていて、死刑囚はロープの輪っかに首を通す。そして刑務官がボタンを押すと床が抜け、すとんと下に落ちる。死刑囚は心臓が止まるまで20分間、そのまま吊るされる。実際目にすることはできないが、死刑は毎年このように執行されている。

 著者である森達也は、死刑について知るために、死刑の当事者たちに話を聞きに行った。弁護士、国会議員、教誨師、刑務官、元検事、元裁判官、元死刑囚、そして被害者遺族。

 元刑務官の坂本敏夫は、世間の人が「凶悪な事件と処刑という、始まりと終わりの形しか知らない」と言う。刑務官は、死刑囚と10年以上もの時間を共有する。長い間一緒に過ごすうちに、死刑囚との間には家族に近い感情が芽生えるという。「死刑囚との関わりだとか、周辺にいた人の思いや努力とか、お世話になりましたと言って処刑台にのぼって死んでいった人の気持ちとか・・・事件と処刑のあいだにあるそういうことは、まったく知られていないでしょう」
 そして彼は、改悛の情を深め、遺族に心から詫びながら、従容として処刑台に上る死刑囚を何人も見ている。だから彼は、死刑の執行には反対の立場をとる。

 被害者遺族の松村恒夫は、皆は「被害者のことをわかったようなふりをしているけれど、実際にはわかっていない」と語る。彼の孫の春奈ちゃんは、幼稚園に行っている間に友達の母親に殺害された。「相手が生きているかぎり許せない。」だけど被害者の気持ちは、加害者が死刑になっても代替できるものではないという。「死刑はひとつの過程に過ぎない。それからまださらにこっちは生きなきゃいけない。犯罪に遭ったとき、ひとりが殺されるだけじゃなくて、みんながめちゃくちゃになる。」
 松村の孫を殺した加害者は、裁判で死刑にならなかった。もちろん松村は、加害者の死刑を望んでいる。しかしながら、同時に彼は「死刑という制度を使わないで済む社会になればいちばんいい」とも言っている。死刑という制度があるだけでは何も解決しない。だから彼は死刑を絶対に存置すべきであるとも考えていない。

 著者の森は、たくさんの当事者に話を聞いた。その結果、森は死刑をどう判断したのだろうか。

 森はまず「死刑をめぐる議論は、論理を超えて情緒の領域で行われる」という。当事者たちは死刑に関して、強烈な経験を持っている。そしてその経験を起点にして、彼らは死刑について逡巡し、考えている。もちろん存置派も廃止派もいる。当事者たちの持つ経験に対して、論理で何を言っても無駄だ。彼らの経験とそれに対する思いは、論理による説得なんかで動くものではないからだ。

 そして森は、ぼくたちが死刑についての経験を持たない第三者でしかないことを見つける。ぼくたちは死刑を執行したこともないし、死刑囚と会ったこともない。大切な人を誰かに殺されたこともない。だからぼくたちは、死刑について感情的に判断しがちである。例えば95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件後、死刑に賛成する人は世論の8割にまで増えた。ぼくたちはサリンを撒いた実行犯たちを死刑にするべきだと考えた。でも、ぼくたちは地下鉄サリン事件の当事者ではない。被害者でもないし、加害者でもない。たまたまマスコミが実行犯の信者を「極悪人」のように報道したから、あなたはそれを真に受けて、「あんな極悪人は死刑になって当然だ」と感じただけに過ぎない。結局ぼくたちの出した結論というのは、マスコミの報道に大きく影響されるような、一時的で感情的なものなのだ。

 しかしながら、ここで忘れてはいけないことは、死刑制度を支えているのはぼくたち、そしてあなたなのだ。あなたひとりの判断が変われば、制度も変えられる。だからあなた自身が、いろいろな人の死刑に対する思いを知った上で、それでも死刑を続けるべきか、止めるべきか考えなければいけない。

2010/03/27

文章をみがかないと、感動は伝わらない - 辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書


辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書



 電子メールやブログの登場によって、私たちは数多くの人と手軽にコミュニケーションできるようになった。これらのテクノロジーのおかげで、私たちが文章を書く機会も爆発的に増えた。しかしながら、文章を書く機会が増えるということは、人を感動させるような名文がたくさん生まれることを意味しない。なぜなら、いくらテクノロジーが進歩しても、表現のシステムは進歩しないからだ。言葉や文章などの表現を使わないと、感動を人に伝えることはできない。そしてこの表現方法は、コミュニケーションの手段として限界を持っている。パソコンでデータをコピーするように、文章を通じて感動を伝えることはできない。だから私たちが感動を伝えるためには、文章の表現にあらゆる工夫を凝らす必要がある。文章を書く際の困難さは、今も昔も変わっていないのだ。

 例えば『「春の訪れ」を表現してください』と言われたら、あなたはどうしますか。芽吹きつつあるサクラの花や、穏やかな春風なんかを交えて表現するだろうか。南木佳士は、『阿弥陀堂だより』の中で春の訪れをこう書き表した。

 「風が春の先ぶれだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせていた」

 どうだろうか。まるでその現場に立っているかのように、春の様子を感じることができないだろうか。この文章には、春の一場面をそのまま切り取ったかのような臨場感がある。「フキノトウ」「若草色の芽」「ぬくもった香り」は、感覚的に春を訴えかけてくる。それだけでなく「腐葉土」や「雑草の下」「阿弥陀堂の庭の端」という言葉によって、春の現場が鮮明にイメージできるようになる。

 このような文章は、一朝一夕に書けるものではない。「ぬくもった腐葉土の香り」や芽吹くフキノトウを見出すのは、南木独自のセンスだ。そして南木が見つけた「春の訪れ」を鮮明なイメージと共に、効果的に読者に伝えている。短い文章ではあるが、簡単に真似できるものではない。

 『文章のみがき方』では、いい文章を書く方法が述べられている。では、いい文章とはどのようなものなのか。文章の本質は、ものごとを読者に伝えることにある。いかに感動的なストーリーや目新しい事実が述べられていても、読者にうまく伝わらなければ、文章はその役割を果たせない。内容の素晴らしさを読者にわかってもらえなければ、いい文章であるとは言えない。だからこそ辰濃は、「自分にしかかけないことを、だれにでもわかる文章で書く」ことこそが重要だと述べている。

 いざ文章を書いてみると、「自分にしかかけないこと」を書くことや「だれにでもわかる文章で書く」ことは、案外むずかしいことに気付かされるだろう。特に私たちは文章を書く際に「だれにでもわかる文章で書く」ことを忘れがちである。私たちは日々文章を読んでいても、書き手の立場に立つことは少ない。人の文章を読んでいて、「これは読みやすいな」とか「なんだかわかりにくい文章だ」と感じることはあっても、実際にわかりやすい文章を書くことは容易でない。いい文章の書き手になるためには、読者に「わかりやすい」「読みやすい」と思わせる工夫を施した文章を書く必要がある。

 だれにでもわかる文章といっても、平易な言葉を使うだけでは不十分だ。平易な言葉だけを使うことで、ものごとの感動や面白みを失ってしまっては本末転倒である。わかりやすい言葉遣いだけでなく、構成、比喩、ユーモアなどの工夫を交えながら、内容を損なわずに、だれにでもわかる文章を書きあげることが大切だ。もう一度『阿弥陀堂だより』からの引用を読んでみよう。たった二文であるが、簡潔に、そしてありありと南木の感じた「春の訪れ」をイメージすることができるだろう。

 『文章のみがき方』の中では、いい文章を書くためのヒントがたくさん書かれている。注目すべきなのは、全体を通じて「文章修行」という言葉がたびたび使われていることだ。文章というのは、借り物の言葉や技巧を使ってすぐによくなるものではない。日々コツコツと努力していくことによって、初めていい文章が書けるようになる。だからこの本は、いい文章の書き方の本ではなく、文章のみがき方の本なのだ。

 幸いにも現代に生きる私たちは、インターネットを通じて世界に文章を発信することができる。自分が精魂こめて書いた文章に、多くの読者を持つ機会が目の前にある。手軽にコミュニケーションできるだけに、軽率に書いてしまうことも多いだろう。しかしながら、この機会を利用して、自分の感動を見つめなおし、誰にでもわかりやすい文章を書いてみてはいかがだろうか。たとえ相手の顔は見えなくても、深いコミュニケーションの中から、あなたの良き理解者を得ることができるかもしれない。

2009/12/27

山森亮『ベーシックインカム入門』


山森亮『ベーシックインカム入門』光文社新書


 ベーシックインカムとは、全ての個人が生活するのに必要な所得を無条件で得ることができる、という社会保障を指す。そんな理想的な社会保障政策なんて、実現不可能だから意味がない、と言わずにとりあえず読んでみてほしい。ベーシックインカムの考えは、今までの社会保障政策の失敗から生まれている。そこで、まずこれまでの社会保障を知ることで、ベーシックインカムのような理念がどうして注目されているのかを考えたい。

 現代の多くの先進国は、多かれ少なかれ保険保護モデルと呼べるような社会保障の仕組みを採用している。この保険保護モデルは、「働かざる者食うべからず」という考えに基づく。つまり、みんなが労働に従事している状態(完全雇用)を目標としている。そして完全雇用から漏れて失業した人のために、政府は失業保険や生活保護などの社会保障を提供する。これらの社会保障は、完全雇用から漏れた人のためのセーフティネットの役割を果たす。このセーフティネットのおかげで、もし失業しても、次の仕事に就くための準備をすることができる。

 このモデルが理想とする、みんなが就くべき「労働」というのは、賃労働を前提としている。賃労働というのは、その報酬として給料が支払われるような労働のことを指す。このモデルの「みんなが賃労働に就くべきだ」という理想は、現在いくつかの問題を抱えている。例えば、専業主婦のことを考えてみてほしい。専業主婦は、直接に賃金を生み出さない家事労働をしている。だが専業主婦は、夫の賃労働を支えるという点で、間接的に賃労働に貢献していると言える。同じことは専業主婦以外にも当てはまる。直接にお金を生み出さないが、あらゆる形で社会に貢献している人はたくさんいる。従来の保険保護モデルは、彼らのような賃労働に従事していない人たちを「賃労働をしていない」という理由で、評価することができなかった。

 それでは、賃労働に携わっていない人たちが評価されていない状態は、いったい何が問題なのだろうか。賃労働に携わっていない人たちは、理想である完全雇用から漏れた人であるとして、保険保護モデルの中では不当な差別を受ける結果となった。例えば、先も述べたように専業主婦の家事労働は、現在も賃労働として評価されていない。このために「女性は家の中で家事をするもの」という認識が社会的に広がり、女性の平均賃金は相対的に低いままである。

 また賃労働に従事していないために差別されてきたもうひとつの例として、身体障害者が挙げられる。彼らは身体的理由でいわゆる賃労働に従事できない。それでも彼らは、「働かざる者食うべからず」の現代では、常に賃労働に就き自立するように、という社会的圧力を受けてきた。時には就労支援施設に入れられ、不自由な体で労働を強いられるケースもあったという。

 保険保護モデルは、賃労働だけを評価していたために、賃労働に就いていない人を不当に差別する結果となった。しかしながら、賃労働をしていない人々は社会にとって本当に不必要なのだろうか。これがベーシックインカムの持つ基本的な問題意識である。もちろん専業主婦の家事労働は社会にとって欠かせない重要な労働である。また身体の不自由な人を温かく迎え入れるような寛容性も、もちろん社会にとって重要な要素である。賃労働に就いていない人たちを評価しなおすには、これまで重視されてきた労働の概念を見直す必要がある。

 そこで次に、賃労働に就いていない人たちを、いかにして新たに評価することができるのか、を考えたい。ここでは、イタリアの哲学者アントニオ・ネグリの主張を見てみたい。ネグリによれば、現代実際に生産が行われているのは、オフィスや工場の中だけに限られない。オフィスや工場の外で行われるあらゆる活動も、資本によって生産に利用されている。例えば、知的ないし言語的な労働の場合、仕事の時間と余暇の時間の区別は極めてあいまいになる。また時間だけでなく、仕事の成果が誰によるものなのかもあいまいになる。終業後に家でシャワーを浴びているときにも、仕事に役立つアイデアが思いつくこともあるかもしれない。そしてそのアイデアは、前に読んだ本からインスピレーションを受けたかもしれないし、他人から聞いた話を応用したものかもしれない。

 そこでネグリは、労働の成果を社会全体に帰すことを唱える。つまり、労働者だけでなく、専業主婦や障害者、ひきこもりに至るまで、社会を構成するあらゆる人間を、生産に貢献する要素として評価しなおそうと主張する。ネグリはこれを「社会化された労働」と呼ぶ。生産に貢献しているのは労働者個人ではなく、労働者を取り巻く社会環境である、となれば、賃金は労働者個人ではなく、社会に支払われるべきである。この「社会化された労働」に支払われる賃金として、ネグリはベーシックインカムを提案している。

 さてこれまで、従来の社会保障である保険保護モデルにおいて評価されてこなかった人を再評価する手段として、ベーシックインカムを見てみた。このベーシックインカムは、保険保護モデルに代わる社会保障政策にとどまらない。ベーシックインカムは、差別のない、より自由な社会を実現するためのひとつの手段として現在も活発に議論されている。

2009/12/09

ウェーバー『職業としての学問』


ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫


 学問は、疑うことから始まった。

 いきなり脱線して申し訳ないが、近代科学の始祖とされるデカルトは、言った。真理の探究のためには、<ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである。>(『方法序説』)しかしながら、疑っても疑っても、偽として捨てることができないものがある。それは何かを疑い続ける私自身である。だから疑いえない私自身は、疑いえない存在として認めざるを得ない。そして、その疑いえない私自身という存在が、明晰に認識し判断することは全て真である。あらゆる人間は、疑いえない「私自身」を持っているから、あらゆる人間が明晰に認識し判断することは全て真である。

 わかるようなわからないような理屈だが、デカルトは疑うことから、それぞれの人間が共通に持つ「明晰な認識力と判断力」を発見した。そしてあらゆる人間が明晰に判断できるものは、自然の中の法則として認められることになる。例えば、あらゆる人間が「リンゴが木から落ちる」ことを認識すれば、地球上には「リンゴは木から落ちる」という原理が存在することが証明されるのだ。このような自然の中の法則をたくさん見つけ出すのが、自然科学である。自然科学は、デカルト以来今日まで、華々しい成功を収めている。

 とにかくここで言いたいのは、「学問は、疑うことから始まった」ということだ。

 ところで、疑うことで疑いえない「私自身」を発見したとき、デカルトは「私自身」を、神の力によるものであると確信した。なぜなら、あらゆる人間に確たる存在や明晰な判断力を与えられるのは、神しかいないから。こうしてデカルトは、彼の明晰な判断力によって、神の存在を再確認した。ところが、デカルトの答えとは裏腹に、デカルト後の学者たちは、神を殺した。学者たちは、明晰な判断力によって、自然界の中から神を見つけ出すことができなかった。彼らは、神の存在を証明する明晰な理由を発見することができなかった。ウェーバーも言う通り、<学問が神とは没交渉なものであるということは、こんにち腹の底ではだれでもこれを疑わない。>

 神は、学問によってその不在が証明された。そして学問は、神を殺した代償として、真理のあくなき追求を得た。学者だけでなく、これまで神を信じていた人々も、真理や進歩の追求に奔走するようになった。要するに、学問的な真理や進歩が、神に取って代わって、人々の生活の目的となった。

 ここから本題に入るので、もう少し我慢して読んでほしい。

 今や、学問が私たちの生活に欠かせないものであることを疑うことは難しい。そして学問が何らかの価値を持っていると多くの人が考えている。だからこそ、多くの若者は、学問を志す。しかしながら、ウェーバーは、学問というのはそんなに大した価値はないと言い切る。彼に言わせれば、学者というのは、野菜売りと対して変わらない。野菜売りは野菜を売ってお金を稼ぐ。それと同じように、学者は知識を売ってお金を稼いでるに過ぎない。

 なぜ学問に大した価値はないのか。ウェーバーは、「学問が神に取って代わることは決してできないから」と言う。

 例えば、私たちがその成果を実感できる学問として、経済学や医学がある。経済学を通じて、貨幣経済が世界中に広がり、私たちは多くの富を蓄えることができるようになった。また医学を通じて、私たちはこれまでになく健康に長く生きられるようになった。ここで、経済学にとっては富や効用をたくさん得ることが絶対的価値であり、医学にとっては長く健康に生きることが絶対的価値である。

 しかしながら、学問は、それが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。つまり、経済学は、富や効用を得ることが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。医学は、長く健康に生きることが本当に価値のあることなのかを疑うことはできない。要するに、学問は、「私たちはどう生きるべきか」という本質的な問いに答えることはできないのだ。だからこそ、学問は神に取って代わることはできない。いくら学問をやっても、あなたの人生は一向に決まらないのだ。

 さて、本書はウェーバーが学生に向けた講演に基づいている。先ほど述べたように、疑うことで始まった学問は、神を殺した。そのために、神を失ったあらゆる学生は、多かれ少なかれ「私たちはどう生きるべきか」という本質的な問いを抱えている。ウェーバーは、このような学生に向けて、学問の無意味さを説いたうえで、こう言う。「神は死んでしまったので、人生の意味なんて誰にもよくわからない。そもそも人生を疑い始めたら、まともに生きられない。だからこそ、とりあえず毎日やるべきことをやりなさい。」

2009/11/22

プラトン『ゴルギアス』


プラトン『ゴルギアス』岩波文庫


 『ゴルギアス』の舞台は、紀元前5世紀の古代アテナイ。プラトンの師匠、ソクラテスが、有名な弁論家のゴルギアスたちと話し合う。この対話形式は、プラトンの著作ではおなじみだ。

 ソクラテスが、話し相手を巧みに説得していく姿は、読んでいてとても痛快だ。
 
 「自分が生きながらえるのに役立たない哲学なんて、知恵の名に値するのだろうか。」ソクラテスの友、カルリクレスは、ソクラテスの生き方の核心に迫る疑問を投げかける。カルリクレスによれば、自然の理は、強者が弱者のものを力ずくで奪い、多くの権力や富を持つことにある。このような権力や富に対する欲望は、自然に従って大きくなるままに放置しておくべきである。しかしながら、欲望を充足できるのは、一部の強者だけであり、大衆にはとてもできることではない。だから大衆は、権力や富を持つ強者を非難し、自分たちの無能を覆い隠そうとする。そして無能を覆い隠すためにこそ、大衆は「放埓はまさに醜いことである」という正義の徳をほめたたえるのだ。正義の徳というのは、いわば大衆の欲望を達成するための口実にすぎない。つまるところ、人間にとって善は、欲望だけである。

 その上でカルリクレスはソクラテスに忠告する。「反駁するなどということはやめにして、それよりも、実務に関するよいセンスを養うようにしたまえ。」そしてよいセンスというのは、人を説得して思うままに動かす技術である弁論術だという。

 それに対してソクラテスは、善悪と欲望とは別のことであると言う。その例えとして、医術と料理法をあげる。医術は、身体の本性をよく研究したうえで、最善の処置を目指す技術である。一方で料理法は、身体の本性を研究するでもなく、ただ熟練と経験に頼って、快楽をもたらそうとする。料理法は、その快楽が身体にとって善いか悪いかは考えてみようともしない。料理がただ気に入られて喜ばれさえすれば、それ以外のことには全然関心がない。だから料理法は、快楽はもたらすが、善をもたらすことはできない。

 さらにソクラテスは、善のために欲望は抑制されるべきであると主張する。医者は病気を治療する際に、患者の欲望を満足させることを許さない。むしろ病気の治療は、苦痛を伴うことも多い。なぜなら、医者は、たとえ苦痛を伴う治療でも、それが患者の身体にとって最善であることを知っているからだ。人間の魂にとっても同じで、魂が劣悪な状態にある限り、欲望の満足は抑制されるべきである。なぜなら、魂が劣悪な状態にあることこそ、何よりも不幸であるだからだ。

 「人間の善は、欲望にある」というカルリクレスの主張は、一見するととても取るに足りないものに思えてしまう。しかしながら、取るに足りないと思う私自身は、彼の言うような善に従って毎日生活しているのではないだろうか。カルリクレスの言う善は、強者である政治家やブルジョワジーだけのものではない。それは読者自身のものでもある。私たちは、このような善は取るに足りないと口では言っていても、実際にはあらゆる欲望に従って生きているのではないか。そして著者のプラトンは、ソクラテスにカルリクレスを論破させることによって、読者に「君たちは本当に善く生きているのか」と問いかけている。

 このように考えると、ソクラテスはある物語の一人の賢人としてではなく、現実を生きる血の通った人間として私たちの目の前に現れる。それも、強い覚悟を持つ人間として。
 
 ソクラテスにとって、善く生きることは、字面だけの正義や善を知ることではなかった。その正義や善が、他者の批判に耐え、そして他者に受け入れられることが何よりも重要だった。だからソクラテスは、ろくに仕事もせずに、毎日毎日古代アテナイの市民と対話をして、自分の善が正しいかどうか確かめ続けた。例えば、善を語るカルリクレスに対して、彼はこう述べている。「以前は劣悪な人間であったのだが、つまり不正で放埓で無思慮な者であったのだが、カルリクレスのおかげで、立派なすぐれた人間になった者が、誰かいるのか」。

 相手の魂を善に導くということは、そう簡単にできることではない。なぜなら、医術の治療が苦痛を伴うように、劣悪な魂を善くすることは、人間の欲望に反するからだ。全ての人間は、不快な事実には耳を傾けたがらない。そしてそれが不快であるがゆえに、善のために毎日対話を続けるソクラテスは、「悪いことを皆に触れまわっている変人」というレッテルを張られた。それでもソクラテスは、裁判の結果処刑されるまで、たったひとりになっても善を追求し続けた。彼は強い覚悟とともに、こう述べる。「現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。」

 『ゴルギアス』を本当に知恵とするには、痛快どころか、激しい苦痛を持って読まれなければならない。

2009/11/15

トマス・フリードマン『フラット化する世界』


トマス・フリードマン『フラット化する世界』日本経済新聞社


先進国の企業は、経済のグローバル化を通じて大きな利益を上げてきた。なぜなら、利益は「安く買って、高く売る」ことで生み出されるからだ。グローバル化によって市場が世界中に広がれば、世界で一番安く資源を買い、一番高く売れる地域で製品を売ることが可能になる。「安く買って、高く売る」ようなグローバルなビジネスにとって重要なのは、世界の地域ごとにあらゆる格差が存在しているということである。

 しかしながら、グローバル化は同時に、このような格差を解消する。先進国の企業がますますグローバル化すると、先進国だけに偏っていた富が世界中に拡散する。富が拡散する結果、世界の隅々までインターネットや輸送手段などが行き渡り、情報や教育、距離の格差は徐々に解消される。つまり、格差があった世界は、徐々にフラット化する。本書は、フラット化しつつある世界を豊富な例とともに捉え、素晴らしい想像力で近未来のフラットな世界を描いている。

 フラットな世界というのは、具体的にどういうことなのだろうか。グローバル化は、共同作業のためのテクノロジーを飛躍的に成長させた。その最たるテクノロジーは、インターネットである。今やインターネットによって、世界に点在するオフィスと共同で仕事ができる。また、オフィスに行かなくても、インターネット端末さえあればどこでも仕事ができる。つまり、仕事をする人間が、アメリカにいるかニューデリーにいるかは問題でなくなる。このことは、仕事をする人間が、アメリカ人であろうとインド人であろうと、関係がなくなることを意味する。例えばいくつかのアメリカ企業は、コールセンターをインドにアウトソーシングしている。テクノロジーの発展の結果、インドとアメリカという距離の格差が消滅し、アメリカ人とインド人の共同作業を可能にしたのだ。

 フラットな世界では、仕事は2種類しかなくなる、と本書は述べる。誰にでもできる仕事と、そうでない仕事だ。そして世界がフラットになるにつれて、誰にでもできる仕事の種類は増えていく。コールセンターがインド人に代替されたように。今後は、より専門的な仕事もアウトソーシング可能になるだろう。言うまでもなく、フラットな世界における優秀な人材というのは、代替不可能な仕事ができる人間である。代替不可能な仕事ができる人間は、世界中のどこにいても自分の仕事を見つけられる。一方で、誰にでもできる仕事しかできない人間は、常に世界の誰かに仕事を取られてしまう恐怖と直面しなければならない。

 先進国に住む人は、世界がフラット化することに大きな不安を覚えるかもしれない。しかしながら、悪いことばかりではない。フラットな世界は、多くの個人に新たな希望を与える。フラットな世界における価値のある仕事というのは、誰にも真似できない独創的なアイディアにより、商品に付加価値をつけることである。逆にいえば、独創的なアイディアを持っていれば、老舗の企業であろうと新参企業であろうと、あるいは個人であろうと、イノベーションを生み出す者なら誰でも大きな成功を期待できる。フラットな世界では、個人がこれまで以上に活躍のチャンスと能力を得るのだ。

 また、ここでもう一つの不安が浮かぶ。フラットな世界では、世界に共通の文化しか価値を持たなくなるのだろうか。確かにフラットな世界では、共同作業のためのツール―インターネット、英語、インフラ―は共有されるだろう。しかしながら、地域の言語や文化が失われるわけではない。むしろそれは一層深化される。テクノロジーのおかげで、個人は故郷を離れずにビジネスの最前線で働くことができる。また国外移住者も、生まれた国の社会習慣やニュース、友人から離れずにいられる。地域のコミュニティは、テクノロジーを通じて結びつけられるのだ。コミュニティがなくならない以上は、地域に根差した仕事がなくなることもない。フラットな世界では、伝統や文化は単一化するどころか、多様性をいまだかつてなかった段階にまで深化させる。

 フラット化した世界では、世界に存在していた様々な格差―教育、国境、出自、富―は消滅する。これは個人にとって、明らかにチャンスである。教育や共同作業のためのツールは数多く存在しているために、世界中の誰もが学ぶ機会や、ビジネスの機会を得るのだ。フラットな世界において、魔法の呪文などない。そこでは貪欲に学び、イノベーションを生み出そうとする人間だけが、成功できる。問題は、あなたがどこの国の人で、どこの大学を出たかではない。あなたが世界にどんなイノベーションをもたらすことができるか、だ。本書にはそのためのヒントが、たくさん詰まっている。